【『Na+』掲載】遠藤水城+宮城潤

以下のインタビューは、芸術生産に関わる人々が、「ナショナリズム」という問題に向き合い、多様な形式のテキストや視覚表現から発信したタブロイド紙『Na+』に収められたものです。2011年1月に交わされたキュレーターの遠藤水城氏と宮城潤(元NPO法人前島アートセンター理事)の電子メールによって構成されています。

インタビューで述べている沖縄におけるアートの状況や問題意識が「compass」の立ち上げに繋がるひとつの要因になっているとの認識から「アート論」で紹介させていただきました。『Na+』は有料で販売していますが、Na+制作委員会のご好意により特別に掲載許可をいただきました。

Na+ ISSUE #001

<特集>ナショナリズムと芸術生産

<執筆者>
足立元, 飯田志保子, 伊奈英次, 遠藤水城+宮城潤, 奥村雄樹, オリヴィエ・クリシャー, 片岡真実, 兼子紗都子, 神谷幸江, 倉茂なつ子, 小泉明郎, チェ・キョンファ, 佐々木加奈子, 管啓次郎, 杉田敦, 鈴木佑也, 田中功起, 手塚夏子, 照屋勇賢, 沼下桂子、原田晋, 藤井光, 藤高晃右, 星野太, 松原慈, 光岡寿郎, 毛利嘉孝, 森弘治, 森村泰昌, 良知暁, ロジャー・マクドナルド

価格:500円(税込)
発行日:2011年2月11日

→『Na+』詳細はこちら。

 

宮城潤(前島アートセンター)インタビュー
聞き手:遠藤水城(キュレーター)

 

前島アートセンターについて

2001年活動を開始し、2002年にNPO法人となる。当初は、那覇市前島3丁目の旧高砂殿ビルを拠点としてスタート。2007年より栄町市場内に新スペース「おきなわ時間美術館」を設立。沖縄のみならず国内外から数多くのゲストを招聘し、現代美術を中心に沖縄から新しい文化を発信しつづけている。(『Na+』発行後の2011年11月解散)

——前島アートセンターを始めるに至る経緯を教えてください。

 直接的なきっかけになったのは、2000年10月末から2週間くらい開催した「前島3丁目ストリートミュージアム」という展覧会です。那覇市前島という街は、座間味や渡嘉敷などの離島航路が出る戦後にできた港町で、歓楽街として栄えていました。1990年、県内の暴力団抗争が激化し、高校生が射殺されるという事件が起こってからは、客足は遠のきどんどん街が廃れていったそうです。僕らが前島で活動を始めた頃は、歓楽街としての活気は完全に失われているように感じました。

 街の背景だけではなく、沖縄のアートシーンの背景も関係しています。

 沖縄には県立の美術館がありませんでした。1995年に基本計画を策定し、2000年に開館する予定で準備を進めていたのですが、バブル崩壊後の財政難のため、その計画が宙に浮いてしまっている、そんな時期でした。前島アートセンターが入居していたビルのオーナーや美術館建設準備室の学芸員、そして若いアーティストが出会うことで「前島3丁目ストリートミュージアム」という展覧会が生まれ、それを一過性のものとするのではなく、民主導の新しい芸術拠点をつくろう!ということで立ち上げたのが前島アートセンターです。

——その前は、宮城さんはなにをやっていたのですか。

 沖縄県立芸術大学彫刻専攻を卒業して、アルバイトで首里城の彫刻復元などをしながら、制作と発表をしていました。実は「前島3丁目ストリートミュージアム」には、アーティストとして声をかけられ参加していました。

—— ずばり前島アートセンターの目的は?

 定款には「沖縄県内において民間主導の新しい芸術・文化活動の拠点となるとともに、アーティストの活動を支援することを通じて那覇市前島地区を中心とした地域活性化を行うことを目的とする」とあります。

 設立の背景から、沖縄県内のアートシーンの活性化、前島3丁目という地域の活性化、異なる二つのコミュニティを活性化することが前島アートセンターの目的でした。

——では、それ以外に宮城さんご自身やメンバーが個人的に持っていると思われる目的や、夢、野望は(例えば)どんなものがあるでしょうか。

 僕のモチベーションは「おもしろくしたい」です。沖縄のアートや社会の状況をもっとおもしろくしたいと思っています。いろんな人がいて、それぞれの意見があって、多様な表現が存在する。そういう社会はきっとおもしろい。

 それと、どうすればいいのかよく分からないのですが、外来の価値観にとらわれることなく沖縄にすでにある価値感、感覚が反映された表現を評価し発信するための価値基準とそのための環境をつくりたいと思っています。沖縄のアーティストの中には、政治や歴史、自然など、一般的に沖縄らしいと思うテーマやモチーフを扱っているわけではないのに「沖縄らしい」と感じさせてくれる人や作品があります。そういう感覚を持ったものを自分たちできちんと評価したい。

 他のメンバーがどのような野望を持っているかはわからないけど、若いアーティストやアートマネージャーの育成に力を入れていきたいと思っているようです。

——前島アートセンターでしてきたことのなかで、よかったことベスト3を教えてください。

 無理矢理いろんなことをやってきたので、いろいろあります。どれが一番とか順位はつけられないけど、とりあえずプロジェクトを3つ挙げるとするならば、

・wanakio(2002年、2003年、2005年、2008年)

・アサヒ・オリオン アートビアガーデン(2003年)

・祝•前島3丁目まつり(2006年)

の3つですね。ただ明日同じ質問が来たら別の答えが出てくるかもしれないけど(笑)。

 「wanakio(ワナキオ)」では、共同ディレクターを務めたティトゥスさんというドイツ人建築家の「ローカル」「グローバル」「トランスローカル」の視点が必要だという考え方は勉強になりました。展覧会には沖縄のアーティストはもちろん、県外、海外のアーティストもたくさん参加していたので、刺激も多かったです。また、アーティストではない人も主体的に参加できるプラットフォームをつくっていたので、ジャンルにとらわれずいろんな人たちとプロジェクトを行えたのもよかったです。タイトルを「wanakio」としたところにも通じると思うんだけど、沖縄という場についていろいろ考えるきっかけになったと思います。2008年に開催したときは、「全国アートNPOフォーラム」を同時開催することで、沖縄から何を発信するかをより深く考えることができました。

 「アサヒ・オリオン アートビアガーデン」は、アサヒ・アート・フェスティヴァル2003という全国的に展開されているプロジェクトへの参加企画です。前島アートセンターのビルの屋上で、40日間、ほぼ毎日イベントをやっているアートビアガーデンをオープンさせました。それまでほとんど助成金とかもらったことなかったので、いくらか予算がつくとその数倍の企画にしなきゃいけないような気がして、相当無理をしました。マネジメントという意識は完全に欠落していましたね。でもビアガーデンっていうのがキャッチーだったのか、美術展には足を運ばない層の人たちにも興味を持ってもらえたし、いろんなジャンルの人たちに関わってもらうことができ、前島アートセンターを知ってもらうきっかけになったことが重要でした。相当厳しい状況の中で実施したプロジェクトで、無給なのに24時間態勢で働いて、今より15キロも痩せていた。あのときのことを思うとたいていのことなら乗り越えられるような気がします。

 「祝・前島3丁目まつり」は、自治会主催の「前島3丁目まつり」をつくりあげる過程を協力するというプロジェクト。前島アートセンターには、地域とアート、異なる2つのコミュニティへのアプローチをするなかで、二つの目的を達成するために向かうべくベクトルは必ずしも一致しないというジレンマがずっとありました。そのなかで、ひとつの成果を表すことが出来たのが、このプロジェクトだと思います。

 前島3丁目という街は、暴力団抗争のあおりを受け活気を失っていったけど、それに歯止めをかけることのできない状況があったんだと思います。地域コミュニティがとても希薄でした。歓楽街が栄えていた頃は、社交組合主催のお祭があって、とても賑やかで楽しかったらしいんです。暴力団抗争をきっかけに自治会ができ、そのときに自治会主催のお祭を行ったらしいのですが、一部の人だけが難儀をして、もうやりたくない、とその後お祭はやらなくなりました。そんななか、前島アートセンターが立ち上がって、wanakioでまちの中のアート展やこどもワークショップ、まち歩きなどを行っているのをみて刺激を受けた自治会の皆さんが、前島3丁目祭りを復活させよう!と声をかけてくれて、2004年に祭を開催したんです。とてもいい流れで嬉しく思ったんだけど、地域の人たちは自分たちのお祭に対してアートセンターにどのように関わってもらえばいいのかわからなかったみたい。僕らも自分たちの事業に追われる中で、うまく関われませんでした。お祭としてはそれなりに楽しくなったようだけれど、やっぱり中心で動いた人は疲れてしまった。なので終了後、毎年やるのはしんどい、隔年開催にしよう、ということが決まったんだけど、本当に2年後やるかどうか不安でした。そこで、お祭を作り上げる過程でアーティストが関わって面白い祭を作り上げるというプロジェクトに仕立てて助成金をとり、お祭をしなくてはならない状況にしました。最初の会議からアーティストにも参加してもらいながら、まちづくりNPOのファシリテーターによって、地域の人たちが何をしたいのかを引き出していった。誰のために、なんのために、ということを考えてもらって。会議の持ち方も工夫したし、アーティストが関わることで、会議で出たアイディアが次にはイメージできるような形になっている、それでモチベーションもどんどん高くなっていって、みんなで難儀してかなりクリエイティブなお祭を地域の人たちが自分たちでつくっていった。もちろん大盛況。ものすごい充実感で地域の人にとても喜ばれたのが嬉しかったです。

 2007年1月に拠点としていたビルが閉鎖することになったんだけど、地域の人たちが前島アートセンターにいてほしい、と引越し先を探してくれて、自治会長が中心になって家主に家賃交渉もしてくれた。引越した先は不特定多数の人を招いてイベントを開催できるようなスペースではなかったので、たまにトークをする程度でしばらくは事務所だけでした。

——前島での活動といまの栄町での活動内容に違いはありますか?

 前島は、テナントビルの空き店舗をギャラリー、イベントスペースにした閉じた空間。人は入りづらいかもしれないけど、自由に表現が出来る。実験的なこともどんどんやれた。手作りだけどホワイトキューブの展示スペースがあったので、展覧会をつくることもできた。

 栄町は市場の中の開けた空間。買い物客がスペース内を横切ったり、座り込んで休んでいったりとかなりオープンで空間自体がおもしろい。でも人目が多いのであまり変なことは出来ない。生活空間と繋がっているので表現の場としては限界があるかな。

 街の状況も全く違う。前島は寂れた歓楽街。栄町は小さいけど活気のある市場。ミュージシャンも多く、文化レベルも高くて「栄町市場おばぁラッパーズ」っていうすごく素敵なものも生み出しています。街自体がクリエイティブな印象です。

 街や空間の在り方が異なるのでだいぶ活動内容も変わりましたね。

——今後の前島アートセンターは?

 どうなるかわからないです。これまで続けることを目的にやってきたわけではなかったし、続いているのが不思議なくらい苦しい経営状況なので、ひょっとしたらなくなってしまうかもしれない。今年4月でちょうど10周年なので、それを機になにか大きな変化があるかも?

 でも、今年度取り組んでいるプロジェクトで「沖縄交流レジデンスプログラム~沖縄から、南へ~」(アジア・アート特派員)というものがあるんだけど、この企画は続けていきたいです。

——沖縄のアートシーンはいまどのような状況ですか?

 10年前と比べるといろいろ変化があるし、活気も出てきたように感じます。MACを立ち上げたときは活気がなかった。80~90年頃元気だったギャラリーも次々と閉まっていって、作家の個展も少なかったし、自分たちで主体的に発信している人は本当に少なかった。だからその状況をどうにかしたいという人が集まってMACが生まれ、新しい動きに期待を寄せてくれる人も多くいました。でも、僕らは期待されてもそれに全て応えることは出来ない。だからということもないけど、しばらくすると別の主体が少しずつ生まれてきました。学生数名で自主運営スペースを立ち上げたり、アーティスト・イニシアティブのようなものやNPOなども。

 2007年に沖縄県立博物館・美術館が開館したことも大きいと思う。開館が近づくにつれ活気がでてきました。県立美術館は関係者の期待が大きかった分、厳しい評価を受けることも多いけど、やっぱり重要な役割を果たしていると思う。以前と比べるとアートシーンが動いている感じがするし。

——大学や沖展のもっている良い点、悪い点は?

 僕は沖縄県立芸大卒ですが、大学を出て10年以上経つので今の状況はよく分かりません。ただ学生をみているとあまり外に出ていない印象を持っています。というか、外で学生をみること自体が少ないです。たまに知り合う学生はみんな真面目ですね。でも、つくることだけに一生懸命で、みること、社会と交わることがあまりないんじゃないかな。MACで会う沖縄芸大の先生に聞いても学生が展覧会を観に行かない、と嘆いていました。そういう僕自身も学生時代は何もせずただボーッと過ごしていましたが。外に出て刺激を受け考える、ということは、沖縄県立芸大よりも琉球大学の教育学部の学生の方が積極的に行っている気がします。学校のカリキュラム、先生方の指導などいくつかの原因はあるのかもしれません。大学の先生、特に非常勤で教えている方には、学生がもっと学校の外の世界にも目を向けるように刺激を与えてほしいと思います。

 沖展は県内最大の総合美術展として、戦後の沖縄アートシーンを牽引してきた功績は大きいと思います。会場の外には出店が並んでいて、美術展というよりも文化祭、お祭のような催しです。ふだん展覧会に行くことはないけど、年に一度、沖展だけは観に行くという県民も多く、これだけ浸透し愛されている展覧会は全国でもあまりないと思います(よくわからないけど)。なので、沖展はこのままでいいと思っています。でも、県内最大=県内最高と勘違いされることもあるので、コンセプトを持った企画展をしっかり多くの人に観てもらう必要性は感じます。

——沖縄というと「政治」が前に出てきますが、アートはどのように政治と関わりを持ちうると思いますか。

 どのようにでも関われると思います。

 政治的なメッセージを発信するためにアートの表現手法を用いることもできるだろうし、日常的に抱えている問題意識がにじみ出てくることもあるでしょう。また、政治性を排除したところで作品を成立させることも。いろんなスタンスのアーティストがいて、多様な作品がみれる状況がいいと思っています。その方がおもしろい。ただ、アーティストはそれぞれ自覚的である必要がありますが。

 でも、現状としてはそのようなグラデーションはつくりづらい。

 沖縄を拠点に活動していると、「なぜ沖縄でつくるのか」「沖縄をどう捉えているのか」「沖縄から何を発信するのか」を突きつけられます。自分と作品の間に「沖縄」を挟むことになる。僕らよりも上の世代、沖縄の復帰前後を体験しているアーティストはそれぞれのリアリティでその答えを見いだしているけど、激動の時代を知らない若いアーティストはつくり発表することを繰り返しながら模索している。一見ナイーブな作品やアーティストが多いのも、そのような状況と関係しているような気がします。ただ、これから出てくるもっと若いアーティストにはまた違った感覚があるだろうから楽しみです。

——宮城さんが沖縄らしいなあ、と感じる作家さんや作品を教えてください。

 もともとペインターでここ数年はワークショップや参加型のプロジェクト、アニメーション作品など幅広く展開している石垣克子さんや映像作家の比嘉千秋さんは沖縄らしいなぁ、と感じます。テーマやモチーフが沖縄らしいというより、空気感や間など、感覚的に沖縄っぽいと思います。具体的にどこが沖縄らしいか上手に説明できないけど、ほかの場所では生まれない作品だろうな、と。

——沖縄の古くからの文化と、美術はどこかで繋がると思いますか?それとも繋がらないことに意味があると思いますか?

 繋がると思います。でも無理矢理繋げるものでもないと思います。

伝統工芸の意匠を作品の中に取り入れるとか、そういうわかりやすいものではなくても、感覚的に「沖縄っぽい」と思うものがあるので、それがなんなのか知りたいとは思います。

 そのヒントは、沖縄よりも南の国々から得られるんじゃないかとも思っていて「沖縄アジア交流レジデンスプログラム~沖縄から、南へ~」というプログラムをはじめました。

——経済的に、アーティストはどのような状況におかれていますか?また、どのようになるのが望ましいですか?

 きっと日本中どこでもそうでしょうが、フルタイムアーティストはほとんどいません。小さな島で経済的にも厳しいのでアートマーケットが成立するような状況ではないし、県外や海外で発表するとなるとコストがかかってしょうがない。経済的には相当厳しいと思います。

 理想を言うと、アーティストが地域の中に当たり前に存在しているのが望ましいです。自営のアーティストがまち中に普通に存在している。まちの電気屋さんや歯医者さんのように。(例えは何でもいいのですが)

 ちょっと話が飛びますが、「祝・前島3丁目まつり」で、地域社会におけるアートやアートセンターのあり方について考えました。アートプロジェクトとして行った企画だけど、祭は自治会主催で、アート作品はどこにもない。アーティストによるワークショップでポスターやゲーム、提灯、音頭などを地域の人たちとともにつくって、会場もちょっと変わった空間になったけど、どこにもアーティスト名は出てこない。でもアーティストからは「利用された」という反応は一切なかった。自治会のお祭を支援するというプロジェクトに賛同して参加しているので当然なんですけど。この関係いいな、と思っています。アートセンターでは、実験的なことができる自由な空間があってアーティストは思いっきり表現する。地域の人たちはそこで行われていることについてはほとんど理解できない。でも、僕らと信頼関係ができているから理解できない不思議なものやコトを受入れてくれる。また、アーティストも僕らとの信頼関係があるので、もうひとつのミッションである地域活性のための取組みに協力してくれる。結果、祭はものすごく盛り上がって、地域の人たちは「アート、スゴい!」と思うようになった。ポイントはアートプロジェクトとしてアートとしてのアプローチをしたのではなく、アートをやっている地域の一員としてお祭に関わった、ということ。電気屋さんがお祭をする際、自分の専門性を活かして提灯の配線などをやるような感じで、アーティストやアート関係者が地域の中に当たり前に存在し、認識され、受入れられる。で、当たり前のご近所付き合いができると楽しい地域社会が生まれると思う。そのためには、アートが普通に生活できるような仕組みと、自由に表現できる場が必要。回りくどくなってしまったけど、思いっきり自由に表現できる場とアーティストとして普通に生活できる環境が両方あるのが望ましいと思う。

——沖縄のアートを、「沖縄以外」の場所でみせていく、開いていくことの重要性と、その難しさを教えてください。

 歴史的な背景や政治的な状況がわからなくても、アートを通して共感できることがあると思う。でも逆に、そのような意味を求められてしまう場合も多い。アート作品としての美しさや素晴らしさについて語られることなく、政治的な文脈に回収されてしまうこともよくある。でもそれは「沖縄以外」ではなく「沖縄県内」でも同じかな。

 また、僕が沖縄らしいなぁと感じるアーティストの作品を沖縄以外の場所でみせても伝わりづらいかな、と思うことはある。わかりやすい沖縄のイメージが含まれていなければ、一見して沖縄の作品かどうかがわからない。僕が共感した部分をどのように伝えていいのか、わからないし、また観る場所によっても作品のみえ方は変わってくるので、沖縄でみた時に感じたリアリティが薄れてしまうこともある。

 それでも発信していく意義を感じているから機会があれば沖縄以外の場所でもそういう作品を紹介するように心がけているんだけど、その魅力を充分伝えきれないもどかしさはありますね。

——大和の人が沖縄に来てアートプロジェクトを行うことに関してどう思いますか。

 どんなプロジェクトかによりますね。

 素晴らしいと感じさせてくれるものであれば大歓迎。そうでなければ勝手にどうぞ。ただ、勝手にどうぞ。ではいかない場合も多いのが現実。有名だったり、スゴそうな肩書きがついていたりすると、プロジェクトもスゴくいいと思わせてしまうから要注意です。地域活性という名目のもと、税金をつぎ込んでもともとある自然やコミュニティなど地域の人が大切にしているものを破壊してしまうものもある。

 地域の人に喜んでもらえるからいい、とか、悪いとか、そんな感覚で判断したくはないけど、沖縄の状況やここにいる人たちへの配慮がなければ信頼関係は築けないし、信頼関係がなければプロジェクトもうまくいかない。

 これまで政治的状況も含めて様々な場面で振り回されてきた背景があるので、沖縄では外から来るものに対してアレルギー反応を示す人は少なくありません。それでも沖縄の現実と真摯に向い合っていくんだという気持ちがなければ、きっとうまくいかないでしょう。

 といいつつ、県内に漂う排他的な沖縄ナショナリズムも危ういと思っています。まず感情的になってしまう場合が多く、それがことの本質を隠してしまう。アート作品、プロジェクトの評価ではなく、人格批判になってしまうこともあるように感じています。

 大和の人が沖縄にきてアートプロジェクトをする際、それをどのように判断するのかを見極めることができる賢さと振り回されないタフさ、互いにプラスになるように仕掛けるしたたかさを自分たち自身が身につける必要があると思っています。