【Ra+掲載】照屋勇賢「緊急時に始動する美術館」

以下の文章はcompassメンバーの照屋勇賢が、芸術生産に関わる人々が「経験」について考えるためのタブロイド紙『Ra+』に寄せたものです。
『Ra+』は有料で販売していますが、Ra+制作委員会のご好意により特別に掲載許可をいただきました。

『Ra+』

<特集>経験と芸術生産

<執筆者>
飯島和樹,飯島真理子,石内 都,ヴィヴィアン佐藤,大島智子,太田敬子,岡部あおみ,加治屋健司,兼松芽永,川勝真一,倉茂なつ子,齊藤哲也,佐藤 信,清水美帆 / Danger Museum,陣野俊史,杉田 敦,田中功起,照屋勇賢,沼下桂子,林 葉子,福士朋子,増本泰斗,増本奈穂,森田浩彰,森村泰昌,八幡亜樹,吉田アミ,The Academy of Alter-Globalization,Chi Too,Kyongfa Che & Jeuno JE Kim,Roger McDonald

価格:500円(税込)
発行日:2012年5月7日

「緊急時に始動する美術館」

照屋勇賢/Yuken TERUYA

2001911日の朝

発煙筒のようになったワールド・トレードセンター は、空に墨を走らせるように、南へ煙を吹き出していました。ビル崩壊後、大勢の医師、精神科医、重機を扱える人達が現場に駆けつけ、救援、瓦礫撤去、生命線をつなげるためのあらゆる努力がなされていました。そんな状況で、アーティストは人を救うことができるのか?という厳しい質問を、美術大学を卒業したばかりの僕はつきつけられました。

あの経験から10年が経過。またもや同じ質問を、今回の東日本大震災で、アートの課題としてつきつけられました。

群馬県前橋市のアーティスト・イン・レジデンス参加中に起きた東日本大震災以降に感じたこと、体験したことなどを書いてみようと思います。

 

Minding my own business

地震発生直後、反射的に、自分のできることからと始めた作品、「Minding my own business」は、当時僕が滞在していた、群馬県の上毛新聞から芽がどんどんと成長している様子を表現しています。新聞の見出しの印象とは関係なく、ひるまずに紙面から芽が生えてくる力を目指して制作しました。 動く大地の上で私たちの生活はともに流されます。 でも同時に、私たちもこの大きな力の一部です。津波で海水と土砂が混ざり合った新しい土地から、次への再建が始まっていると感じたい。作品上で、まっすぐ太陽にむかって伸びる芽達は、津波の流れ、地震の爪痕、そして避難した人達をもその色を葉っぱの形にとりこみ、草原へと成長させていきます。 この作品は、前橋市の市民からなるグループの提案により、「未来の芽、里親プロジェクト」という、前橋市民主導のアート・プロジェクトに展開していま す。(www.miraime.jp) プロジェクトでは、それぞれの芽の里親になる権利を販売し、最終的には、権利を買った人々がこの作品を共同購入し、市の美術館に寄贈することになります。販売で集められた資金は、東日本大震災の支援金として、ボランティア団体を中心に役立ててもらうシステムです。 個人として里親の権利を購入しても、その芽は美術館へ寄贈になります。里親は個人で所有権を主張することはできない代わりに、作品と密接にかかわる立場になります。作品の芽一つ一つは、里親の名前の下から伸び、里親の存在は、凛として伸びようとしている芽に重なります。 その後、前橋市の市長が変ったことで、美術館建設は中止されましたが、このプロジェクトは市民によって続行されています。今年も他県や外国での展覧会に招待されています。また、美術館建設再開を願う市民から、美術館への他の現代美術作品の寄贈の相談も受けるようになりました。

 

アートへの投資

アーティストにできることは、活動を通して義援金を集めるといったことだけではなく、一見、実用性がないものであっても、アーティストが信じているアイディアであれば、それを提示し、実践することです。 地震発生後、滞在先の前橋市の作家達との交流の場で、被災地で役立てるはずだと、携帯足湯やお風呂を提供するプロジェクトを八木隆行氏が発案しました。それに対して、被災地で迷惑にならないか? 今は義援金を集めるべきだという反対意見が圧倒的でしたが、焦点からはずれた視点や発想への投資は、人の心のバランスをとる役割になると信じています。 僕は八木氏の案に触発され、今こそ、アートに投資するタイミングだと思い始めるようになりました。 被災地での活動の発想は思いつかなかったので、被災地へ向かう作家をサポートするチャンスを模索し ました。そこで、新聞紙の芽の小作品を別途制作し、個人のコレクターに購入してもらい、その資金を八木氏の被災地での活動の支援に当てました。 作品の売買の関係を活かしながらも、関わる人達の間に力関係が生じないように、皆が常に生産的に進んでいけることが、手探りでありながらも、踏み外したくない軌道としてありました。

 

一分間の「静」

地震から約2週間後の3月27日、群馬交響楽団によるチャリティー演奏会を聴きに行った時のことです。演目に、バッハのG線上のアリアが追加され、楽団はその楽曲の演奏後、拍手の代わりに、被災地への思いと犠牲者への哀悼の意を表するため、一分間の黙祷を捧げることを提案しました。 会場にいた人達全ての意識で「静」が維持されました。驚く事に、僕にとって地震後、初めて実感できた静けさでした。会場のその静けさが、外部からのあらゆる情報やうねるような不安から、そこにいる人たちを守っていました。 黙祷の空間は、経済的な格差から生まれる、寄付できる義援金の個人差は消え、個人個人の気持ちの関わりが、静という均一に変ってゆく時間であり空間でした。黙祷の前半、被災地を思う気持ちが、後半では、会場の人達との一体感に僕自身が救われる経験へと変ったのです。

美術館も、未曾有の状況、不安、混乱した情報から、気持ちの整理を助ける場所です。そこにある過去の風景画や肖像画に表れている表情や色みは、情報で疲弊した感覚の軌道修正をしてくれます。長い歴史を生き抜いてきた作品たちは、幾多の苦難も乗り切れる証と自信を与えてくれます。 地震直後、僕は、沖縄県立美術館の個人コレクション展で展示されていた、ライアン・ガンダー(Ryan Gander)の、一見どこにでもありそうなオレンジのビニールの布が畳まれ、床に置かれているインスタレーション中に立っていました。床上のジェスチャーと、その日常的な素材に、日々の平安の形を発見したり、張り巡らされたオレンジ色と、それが美術館の天井に反射してつくり出す空間のやさしさが、気持ちを支えてくれそうな場に感じさせたりもしました。個人のささやかな表現が、公共空間で保証される拠り所として、美術館の意義を今でははっきり理解できます。 美術館や音楽ホールが、緊急事態時に住民の不安を落ち着かせたり、心を支える、開かれた場としてのあり方を模索し、機能してほしいです。

 

緊急時に始動する美術館

僕は、緊急時に始動するコレクション展など、緊急時のためのプロジェクトを美術館に提案することを考えています。内容は、常に更新していいものかも知れません。緊急時までは開かれることはない展覧会ですが、その企画は、美術館が自らの存在意義を自覚していることを意味します。企画としてだけでなく、美術館施設内の非常階段など、日常では使われない場所へのアプローチも、美術館が緊急時をどう考えるのかがはっきり表現できる場所になりえます。 僕は、群馬県前橋市の美術館の、非常階段でのプロジェクトを提案しています。現在、美術館の建設は保留になっていますが、それは旧西武デパートを改築してできる予定でした。当初の予定において、デパート当時の非常階段は存続します。僕がとりかかっている案では、この長い非常階段の途中をガラスで仕切り、通常入れる空間からガラス越しに見える、緊急時にしか入れない、でも同じペースで続く階段の空間演出を重要視しています。入ることができない空間で展覧会が行われるとしたら、そこにどのような意味を読み取る事ができるだろうか。その空間が持つ役割と性質から、企画展、常設展とは別の性質の空間を提示することで、美術館としての公共施設の特殊性を強調できるのではないでしょうか。 ガラス手前の階段の空間は、先述した、東日本大地震後に行われた群馬交響楽団の演奏会と黙祷の時間の音の再現を提案しています。復興を成し遂げた 未来が、今の時期を忘れないように。一分間の黙祷を支えていた、ホールに集まったひとたちの存在を感じる場所を確保するために。非常階段が続く空間は、ガラスを境に、非常時の用途と常設展示の空間を視覚的につなげます。同時にこの空間は、乗り越えてきた時間へのアクセスと、起こるかもしれない未来への用意とも言えます。

 

アーティストは人を救うことができるのか?

2001年当時は、アーティストの仕事を限定できないはずの立場にありながら、人を救えるかという限定した質問を自らに投げかけてしまいました。テロ事件による緊急事態時を目の当たりにして、アーティストの役割を具体的に見いだそうと焦ったのだと思います。しかしながら、それらの課題への回答は、2011年の災害後の経験になって現れてきています。 アーティストは、人を救う専門家ではない。しかし、多くのアーティストが、去年の災害を受けた日本で、光を当てなければいけない事や、物や、動物や、人達を照らしています。そして彼らの活動や作品は、多くの人を救っています。僕自身、自分に言い聞かせなければいけない事は、活動分野を限定できない専門家であるという自分の役割を自覚して、その出番を待ち、活動に挑戦し続けることです。

最後に、空港で見た、印象的な光景を紹介します。 地震発生後、一週間の間に沖縄と群馬を2度往復する中、僕は国内のNHKの原発の情報と、外国から送られてくるメールの危険/避難というはっきりとした情報の温度差に振り回されていました。どの情報を信じて行動するべきなのか迷う一方、前橋市役所からは仕事続行のプレッシャー。仕事を放棄して、沖縄に避難するべきか? 沖縄の作家友達からは、危険だと思う場所から逃げる姿を堂々と見せる事が、アーティストの役目だとも言われました。 情報と責任との狭間で疲れきっている中、羽田空港で見た、関西、沖縄行きチェックインカウンター前にずらっと並べられた、ペット移動用ケースの光景はとても象徴的でした。空港は子連れの女性、またペット連れの多くの女性の姿が圧倒的にその場を占めていました。女性の感性は、守るべき命を優先することができることの証明でした。 ある意味、情報に関係なく、なにかを守る感性は、はっきりとした答えがそこにあるのだと、そしてそれは生きる力と密接に関係しているのだと見せつけられました。

 

 

A Critical Journal on Contemporary Art『Ra+』

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特集:経験と芸術生産
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芸術生産に関わる人々が「経験」について考えるためのタブロイド紙『Ra+』

<CONTENTS>
飯島和樹(言語神経科学)「経験をつくる 経験についての科学」
飯島真理子(芸術表象)「経験を語ることについて」
石内 都(写真家)「ひろしま」
ヴィヴィアン佐藤(美術家, 非建築家)「マドレーヌ、Tバック、幽霊」
大島智子(アーティスト)「かわらない」
太田敬子(オルタナティブスペース“CAVE”スタッフ)「政治について私たちが語るとき、そこにまとわりつく「ヌル」について」
岡部あおみ(美術評論家)「闘いの踊り フォーサイスとニジンスキー」
加治屋健司(表象文化論・美術史)「経験を代置すること 目黒区美術館「原爆を視る 1945-1970」展の中止について」
兼松芽永(芸術の人類学/ 社会学)「しゞまに孕む」
川勝真一(RAD ディレクター)「「縮尺」という約束事を持った経験について」
倉茂なつ子(アーティスト)「ひとり遊びシリーズ#02 妄想」
齊藤哲也(芸術表象)「愛おしさへとコンバートすること」
佐藤 信(政治学)「経験の社会化とその陥穽」
清水美帆 / Danger Museum(アーティスト)「不確かさと向き合うこと」
陣野俊史(文芸批評家)「応答するということ」
杉田 敦(美術批評)「経験の政治」
田中功起(アーティスト)「言語格差についてのメモ」
照屋勇賢(アーティスト)「緊急時に始動する美術館」
沼下桂子(芸術表象)「経験していないことを経験するには」
林 葉子(ジェンダー史, 思想史)「〈ケアされた記憶〉を呼び起こす 反戦の思想として「ケア」を位置づけるために」
福士朋子(アーティスト)「S / N」
増本泰斗(アーティスト)「戦争体験を考えるための実験」
増本奈穂(パーティー研究家)「日常の負荷を体験するパーティー」
森田浩彰(アーティスト)「Mar. 11, 2011」
森村泰昌(美術家)「なにものかへのレクイエム(記憶のパレード / 1945年アメリカ)」
八幡亜樹(アーティスト)「生きることは「編集」すること」
吉田アミ(前衛家)「あなたとわたしとわたしたち」
The Academy of Alter-Globalization(アートトリオ)「あらゆる状況を作る切り紙キット」
Chi Too(アーティスト)「Are We Forgetting Somethings?」
Kyongfa Che & Jeuno JE Kim(キュレーター、アーティスト)「Interview with the Director of The Greece Gropers Foundation」
Roger McDonald(キュレーター)「経験の地平線」

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CONCEPT
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戦争経験と忘却をテーマにした映画作品
《ヒロシマ・モナムール》(Hirosima monamour, 1959)の冒頭で、
映画撮影のためにヒロシマに滞在するフランス人女性が
「私はヒロシマを見たわ」と語るのに対して、
ヒロシマ在住の日本人男性は「きみはヒロシマを見ていない」と幾度も繰り返します。
物語の後半では、女性が戦争によって恋人を亡くした過去を語り、
女性も男性と同様に否定的な態度を取ります。

経験するとはどういうことなのか?
経験していないことについて語ることはできるのか? 沈黙するべきなのか?
経験を語ることにどのような意味があるのか?
経験していないことを知ることはできるのか?
経験を語ることができない人はいないのか?
他者は理解できるのか?
理解できないとしても、いかに向き合うことができるのか?

このプロジェクトは、災害、戦争、事件、事故、歓喜、快楽などの
様々な「経験」について考え、芸術生産の可能性を探る試みです。

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取り扱い書店など ※2012/07/18現在
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[恵比寿]NADiff a/p/a/r/t
[渋谷]NADiff modern(Bunkamura ブックショップ)
[清澄白河]NADiff contemporary(東京都現代美術館 ミュージアムショップ)
[初台]gallery 5(東京オペラシティ ギャラリーショップ)
[水戸]Contrepoint(水戸芸術館 ミュージアムショップ)
[愛知]NADiff 愛知(愛知芸術文化センター アートショップ)
[沖縄]言事堂
[静岡]オルタナティブスペース・スノドカフェ
[豊田]豊田市美術館
[福岡]とんつーレコード / art space tetra ※イベント開催時のみ
[駒場東大前]Kosmos Lane Studio & Gallery
[品川]原美術館
[京都]ZUURICH / kara-S
[新宿]模索舎
[多摩川]art & river bank
[横浜]blanClass
[浅草]マキイマサルファインアーツ
[青森]Midori Art Center
[仙台]カネイリミュージアムショップ6